「黙示録のラッパとパウロの最後のラッパは同じか?」

「黙示録のラッパとパウロの最後のラッパは同じか?」

患難前携挙説について連続で取り上げています。これは昨今ディスペンセーション神学の立場から大量のインターネット情報が流され、彼らの主張する患難前携挙説がキリスト教界に影響を与えているためです。

私は別にディスペンセーションや患難前説に目くじら立てたいわけではありません。ただ何らかの神学、言説、解釈が「我こそは正しいのだ」と主張し始め、それ以外の教会を見下げ始めたり、多くの教会が一部の指導者に影響を受けて、流行のような「草木もなびく風潮」にいつも注意する必要がある、バランス感覚を持っている必要があると考えているからです。これは新使徒運動であれ、ギャザリングであれ、霊の戦いであれ、クリスチャンシオニズムであれ、私にとっては同じです。

それでそのような言説、解釈を聖書から問い直すということを試みることにしています。

ある団体の終末論セミナーに参加させていただいた時、患難前携挙説を正当化するために、彼らは患難中や後携挙説に反論を加えないといけなくなります。

その一つが「ラッパ説」をめぐる議論です。

ラッパとは何か?

“だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。
そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。
人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。”
マタイの福音書 24章29~31節

イエス様の終末預言で、全世界的な苦難の後、ラッパと共に御使いによる選びの民の召集があると言うのです。

これは聖書の他のどの箇所と対応しているか見てみましょう。

“主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。”
テサロニケ人への手紙 第一 4章16~17節

これはいわゆる「携挙」そのものを現している箇所です。携挙の時、何が起こるかはやはりパウロが書いています。

“終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。”
コリント人への手紙 第一 15章52節

以上から携挙は
1.苦難の後にやって来る。
2.地上の人がキリストの再臨を見る
3.ラッパがその合図である。
4.クリスチャンは栄化(蘇り、不死化)される。

ことがわかります。

黙示録においてこの描写はどこにあるでしょうか。

“それから私は、神の御前に立つ七人の御使いを見た。彼らに七つのラッパが与えられた。”
ヨハネの黙示録 8章2節

“第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。」”
ヨハネの黙示録 10章7節

御使いが7つのラッパを吹くのは、地上に対する神様の裁きを現しています。地上に多くの災害、苦難が降り注きます。

そして最後のラッパ、7つ目のラッパの時「神の奥義」が成就するというのです。

神の奥義とは何でしょうか?

“聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。
終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。”
コリント人への手紙 第一 15章51~52節

これはパウロによれば明らかに「携挙」の時に起こる「クリスチャンの栄化」を指しています。

聖書を自然に読めば、携挙=栄化=7つ目のラッパ=最後のラッパ

となります。
7つ目のラッパは明らかに患難時代に入っていると考えられます。

ところが患難前携挙説を信じる人にとって、これだと都合が悪いわけです。だから彼らは非常に特殊な解釈をします。

パウロの言う最後のラッパは黙示録のラッパとは違うと主張するわけです。

その理由として、パウロはヨハネが黙示録を書く以前に亡くなっているのだから、黙示録を知るはずがない。だからパウロはヨハネのラッパに言及しているのではないと主張します。

これは不思議な理屈です。
パウロはそれまでのユダヤ人が考えもしなかった異邦人に遣わされた伝道者であり、自身は次のように述べています。

“パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。”
コリント人への手紙 第二 12章4節

彼は自分が特別な啓示を受けたと理解していました。彼はこのような経験から12使徒ではなかったのに、自分を使徒としてはばからなかったのです。だからパウロはラッパに関してヨハネの啓示を待つ必要はありませんでした。黙示録がないからラッパに言及できないと言うことはできないのです。パウロは少なくともイエス様がラッパと共に選びの民をお迎えに来られることは知っていましたから、最後のラッパの時に携挙があり栄化があると教えることができました。そしてその後ヨハネはラッパが7つあると詳しく書いたのです。

しかしある牧師のサイトにこうありました。

(ここで使徒パウロが語っているのは空中携挙のことです。その時に「終わりのラッパ」が鳴るのです。ちなみにそれは、ヨハネの黙示録第8〜第11章に登場する御使いによって吹き鳴らされる「さばきのラッパ」(第一〜第七)とは異なるものです。パウロは、花婿なる主が天から下って来る時に、花嫁なる教会は雲の中に一挙に引き上げられて空中で花婿なる主と会うという「携挙」が起こることを記しています。)

どうしても地上再臨と空中再臨を区別するために、こういう解釈を彼らはするわけです。ヨハネの7つ目の最後のラッパが「奥義の成就」だと書かれていても、それは地上再臨であって空中再臨とは違うんだと主張します。しかしイエス様もパウロもそんなことは教えていません。

彼らは最後のラッパとは、旧約聖書に書かれたレビ記の「ラッパの祭り」に対応していると主張します。イスラエルの例祭が終末の預言的意味があり、対応していると主張します。それによると「ラッパの祭り」ではラッパが100回吹かれて、パウロのラッパはその最後のラッパに対応しているんだというのです。

http://osusowake.hatenablog.com/entry/2014/10/06/112426
この主張を考える時に注意しないといけないのは、ではその100回目に吹かれる最後のラッパは聖書のどこに書かれているのか、ということですが、そのような記述は聖書にありません。つまり聖書に書いていないことを基準に聖書解釈しているわけです。ラッパの祭りがどのように行われるのかを、現在イスラエルのラビが行っていることを基準にしますが、そもそもラビがいつからそのような形式で祭りを行なっているかは定かでないのです。聖書に書いていないわけですから。

このように患難前携挙説が主張するラッパの解釈は、最初に自分の答えありきで、後から聖書を当てはめているように私には思えます。

私には彼らが複雑な「ヘブル的解釈」を駆使することによって、聖書を素直に読めば誰でも理解できることから、わざわざ脱線しているように思えるのです。

確かに神はイスラエルを通してヘブル、ユダヤ人を用いて聖書を書かれました。だからヘブル的学びは聖書理解に役に立つと言うのはわかります。しかし神は全世界の地の果てまで、単純な福音を学の無い者までも救うために私たちをお遣わしになります。神はルター以降、全世界の言語に翻訳された聖書が一般の普通の人が読めるものとして私たちに道を開き、かつみことばを理解するために聖霊を与えてくださいました。

学びを深めるのは素晴らしいことですが、複雑なヘブル的解釈によらなければ聖書が理解できないように神は聖書をお作りになったのか、私には疑問に思えるのです。

みなさんはどう思いますか?

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次