
最近ある牧師さんと話していて神学が大事という話が出ました。私はいわゆる神学校出た人ではありませんので、何々神学の話をされてもよくわかりません。
でもあまりに不勉強を「誇る」わけにも行きませんので、少し調べてみました。
それによると私は改革派神学ではなく、どちらかというとアルミニウス主義に近いのかなぁと思いました。
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改革派は宗教改革の指導者であったツベングリやカルヴァンの神学ですね。一方でアルミニウス主義はホーリネスやウェスレーに受け継がれ、ペンテコステ派にも影響を与えたそうです。
深く調べたわけではないんですが、カルヴァンは人間は「全的堕落」しているが、一度救われたら救いを失わない=神による選びの神学(予定説)」であるのに対し、アルミニウス主義は、「救われても救いを失うことはある」と考えます。
またカルヴァンは救いに関して選ばれているのだから、人間の側の努力は全くいらない(救われるべくして救われる)と考えるのに対して、アルミニウス主義は人間には救いに応答する能力が先に与えられているから、応答する責任の行使は必要だと考えます。(間違ってたら教えてください。)
しかし改革派では救われる人は予定されていますから、神に愛されている人と愛されていない人に生まれる前から最初に分けられてしまいます。
“神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。”
ヨハネの福音書 3章16節
私の知るヨハネ3章16節では、神は世を愛されたと言っていますから、基本的に全ての人は愛されていると考えてきました。今もそう思っています。だからアルミニウス主義になるのでしょうが、ただ応答の責任が問われますし、信仰を守る責任も生じます。
どちらの神学を取るかによって牧師さんが講壇から語る内容は変わるのかもしれませんが、私は実際の宣教においては、誰が救われているのかどうかを人間的に判断することはできないように感じています。
誰がどこで信仰的な大化けするのかも、私にはわかりません。あるいは救われているように見える人が信仰から離れることもあり得ると考えます。これは現実の教会生活で見受けられることです。
仮に予定説が正しくても、私たちにできることは「福音を語り、それに応答することをいつもうながす。」結局それしかないし、それしかできません。
時間と空間を創造し、かつそれを超越されている神様ですから、誰が救われるかは神様にしかわからないことですから、カルヴァンかアルミニウスを論じることは、そんなに重要なことではないように私は感じています。
“しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。
また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。
では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。”
ローマ人への手紙 10章6~8節
神学にお詳しい方はいろいろお考えがあるのかもしれません。しかしその神学の話をされた牧師さんが言われてましたが、今日教会に人を呼び込んで止めるために、あまりにも耳に聞きやすい「お手軽な福音」が語られてるということは確かに感じています。
(絵はJohn Calvin)
