
「福音中心にものを見る」
福音中心の人生になると何が変わるでしょうか。
福音は自分がイエスが犠牲を払うほどの価値を神がお認めになっていることを知ることです。
福音は誰のものでしょうか。
福音は全ての人のためです。
イエスは全ての人の罪の身代わりとなられました。
信じた人だけではありません。
全ての人のためです。
“こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。”
ローマ人への手紙 5章18節
“というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。
また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。”
コリント人への手紙 第二 5章14~15節
イエスは私だけではなく、
あの人
この人
のために死なれました。
私だけのために死なれたのではありません。あの人この人のために死なれました。
つまり神に愛されているのは私だけではありません。あの人この人も神が我が子を犠牲にするほど愛されているのです。
私たちの役割は、その事実を伝えることです。
あなたは神に愛されているよと伝えることです。
神に愛されている人にふさわしく私たちが接することです。
あの人もこの人も神に愛されているんだと人を見るのです。この人は裁かれるとか地獄にふさわしいと見るのではありません。
自分が救われたから
自分が愛されたから
自分が受け入れられているから
その人にもそのように接する
もし私たちが信じないなら地獄に落ちるよと最初に伝えたら、その人にとって福音は「地獄の知らせ」以外の何ものでもありません。これは福音を間違って学んでいる状態です。
確かに福音を拒んだ人は神によって裁かれます。
神の大きな代償を拒んだからです。その結果その人は自分で罪の代償を払わなければなりません。
それはそうですが、私たちが伝えるのは、あなたは神に愛されているよと伝えることです。愛される価値があるよと伝えることです。
何をしなくても何ができなくても神に愛されているということ
イエスの十字架はそのためにあったという事実を伝えることです。
神の愛がその人を癒します。
神の愛がその人を解放します。
神の恵みを伝えること
値なしに義とされることです。
だから福音を地獄の知らせにすることでないと私は理解しました。
それは黙っていても拒んだその人が受ける結果です。やがて来たるべき審判の日にそれが明らかになります。
どうしても拒否する人、反感を持つ人とは距離をおくしかない時もあります。「聞く耳のある人は聞きなさい」とイエスが言われた通りです。
拒んだ人にはその人がまだ受け入れない事情や受ける準備ができていない時であると理解し、時を待ちましょう。
“「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、
主の恵みの年を告げ知らせるために。」”
ルカの福音書 4章18~19節
