
「イスラエルと教会は完全にセパレートできるのか?」
ディスペンセーション神学のセミナーやクリスチャンシオニズムの台頭により、一般のクリスチャンの間でもイスラエルをことさら特別視したり、ユダヤ人を異邦人の上の祭司に位置付けようとするような妙な風潮がキリスト教界に広がっています。
私もあるセミナーで勉強させていただいた時に、聞いていて納得できないことや疑問に思うことが出て来たんです。
しかし直接質問しても答えられず、私の疑問を文書にまとめて渡しても一瞥もせずにスルーされてしまいました。
ディスペンセーション神学や患難前携挙説の人にこのような傾向があるのか、その人固有のものなのかはわかりません。
ただ私が思うに、患難前携挙説がかなり心情的に受け入れやすいために、人気があることは事実だろうと思います。
なぜかというと、患難前携挙説の立場では、地球上にひどい患難がやって来て、さらには反キリストによる大迫害が起こることになってますから、当然そんな時代にいたくないわけですから、誰だって直前に携挙されるという教えに安心したい。だから患難前携挙説に対する反論や批判にできるだけ関わりたくない、スルーしたいのは、心情的には理解できるのです。
だからといって議論から逃避していて解決するものでもありません。ちゃんと答えれないなら、それを謙虚に認めても、その人の人格がダメになるわけではなく、むしろクリスチャンとして尊敬します。私なら。
ところでこの人気のあるディスペンセーション神学の特徴に「イスラエルと教会を一貫して区別する」ということがあります。その立場から彼らはユダヤ人を敬愛する反面、自分たちだけが先に携挙されて助かるから安心だという二面性を持っています。患難時代にはユダヤ人は残されて辛酸を舐めるという解釈です。
私自身は患難時代がもしあるなら確かにイスラエルは歴史上最大の試練の中で集団改心するとやはり考えていますので、その点に関して異論はありません。しかしあくまでイスラエルと教会は別に考える必然性があるのかはどうでしょうか。
イスラエルに対する契約がまだ有効であり、異邦人とは別の神様の約束がやがて成就するというのがディスペンセーションの立場で、それに対してイスラエルに対する契約はもはや無効になり教会に統合されたと考える立場を「置換神学」と呼んで彼らはバカにします。
今回はこの辺を少し取り上げてみます。
まずアブラハムに対するアブラハム契約と呼ばれるものですが、創世記を見てみます。
“わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」
アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。
「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。
あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。”
創世記 17章2~5節
“アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。
わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行わせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」”
創世記 18章18~19節
確かにアブラハム個人に対する契約は、彼の子孫に対する約束でした。しかし神はアブラハムの子孫を果たして今日のユダヤ人だけに対する約束として契約されたのでしょうか。ここでは神はアブラハムに対してあなたを「多くの国民の父とする」と約束されました。
これに対し新約聖書でイエス様はこう述べています。
“それならそれで、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの父はアブラハムだ』などと心の中で言い始めてはいけません。よく言っておくが、神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。”
ルカの福音書 3章8節
ペテロはユダヤ人に向かってこう述べています。
“あなたがたは預言者たちの子孫です。また、神がアブラハムに、『あなたの子孫によって、地の諸民族はみな祝福を受ける』と言って、あなたがたの父祖たちと結ばれたあの契約の子孫です。”
使徒の働き 3章25節
それに対しパウロも異邦人に向かってこう述べています。
“そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。”
ローマ人への手紙 4章16節
この一連の流れは、アブラハム契約がユダヤ人だけに限定されるようには読めません。
アブラハムはユダヤ人の始祖であるだけでなく、諸国民の父として神様が定めて契約を結びました。確かにユダヤ人はアブラハムの直接の血統にあり、その血統のゆえの特別な改心のチャンスが与えられていることはパウロがローマ11-1で述べている通りですが、アブラハム契約は最初から、アブラハムの血統的子孫だけを想定したものではなく、神様の壮大な人類救済計画の中にあるのであって、アブラハム契約をイスラエル民族だけに限定して区別することが神様の意図ではないと私には読めるのです。
パウロは異邦人クリスチャンにこう述べています。
“アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。
ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。
聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される」と前もって福音を告げたのです。
そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。”
ガラテヤ人への手紙 3章6~9節
新約聖書によって明らかにされたことは、アブラハム契約が血縁に対する契約以上のものを包含していたということです。すなわちパウロは元々アブラハム契約が民族に対する約束だけを約束したのではなく、最初から異邦人の救いが含まれていたことを教えているのです。
もう一つ別の視点で説明してみます。
ディスペンセーションの主張「イスラエルと教会を一貫して区別する」としたら、エルサレムに生まれた初代教会はイスラエルなのでしょうか。それとも教会なのでしょうか。
答えはどちらもです。
初代教会はユダヤ人のキリスト改心者によって生まれましたから、彼らはイスラエルであり教会でした。今日もユダヤ人のクリスチャンは存在します。彼らはイスラエルですか。それとも教会ですか。
パウロが信仰により救われると言う通り、今日ユダヤ人であることによって救われるわけではありません。キリストに対する信仰により救われます。そしてその原則は新約時代も現在もやがて来る患難時代も同じです。変わりません。
信じないユダヤ人は過去において滅び、未来も滅びます。異邦人との区別は何もありません。信じる者は救われ、信じない者は滅びるのです。
患難前携挙説なら教会は患難時代前に携挙されますが、ユダヤ人クリスチャンも同時に携挙されないとおかしなことになります。では患難時代に改心したユダヤ人は、患難前のユダヤ人と何が違うのでしょうか。何も違いません。異邦人も同じです。携挙されたクリスチャンと携挙1秒後に改心したクリスチャンに何の違いがあるでしょうか。何もありません。
このような区別をことさら強調することにどんな意味があるのでしょうか。
今日イスラエルに帰化できるユダヤ人にはある条件が設けられています。現在のイスラエルの帰還法によれば「ユダヤ人の母から生まれた者、及びユダヤ教徒」であるとされています。
つまりユダヤ人の父を持つ場合はユダヤ人とみなされないのです。
つまり母系ユダヤ人のみをユダヤ人とみなし、父系ユダヤ人はユダヤ人でないわけです。
しかし聖書によれば、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と言われるように血統からくる契約の民は基本的に父系に約束されているのです。
さらに言うと現在のイスラエルのユダヤ人は百年、千年単位で異邦人と血縁的に同化してしまっているのです。遺伝子研究によりユダヤ人はかなり早い段階でヨーロッパ人と混合してしまっていたことがわかっています。さらにユダヤ教徒であればユダヤ人であるなら、血縁はもはや関係ない。アジア人もアフリカ人もユダヤ人。これが現在のイスラエル国家に集められている人々の定義です。
つまり神様が契約で約束されたアブラハムの純粋な血縁的子孫はもはや判別できないほど異邦人化しています。離散しなかったユダヤ人の中にはパレスチナでイスラム教に改宗した者もいたでしょう。彼らはユダヤ人なのかそうでないのか。こう考えて行くと、アブラハム契約をイスラエルに対する固有の契約だとそんなに強調することが、今日必要なのかと私は思うわけです。
イエス様はユダヤ人にこう言われました。もう一度引用します。
“それならそれで、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの父はアブラハムだ』などと心の中で言い始めてはいけません。よく言っておくが、神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。”
ルカの福音書 3章8節
以下はディスペンセーション主義者であるある牧師さんのブログです。
ディスペンセーションでありながら、行き過ぎを戒めている態度。これは賛同します。
みなさんはどう思いますか?
ご意見お待ちしております。
