「京都聖書座談会」3/11

「京都聖書座談会」
昨日は京都に10人のノンクリスチャンが来られました。私と妻、佐野さんと去年受洗したカメちゃんで証しました。
わざわざ千葉県から来られた人もいました。全員反ワクノンクリスチャンです。彼らは聖書の患難時代が近づいていることを感じているのです。
私は昨日大きな発見をしました。
聖書預言の信頼性について詳しく話しました。しかしあれだけ話しても「ではどうすれば良いの?」と聞いてくる。
「42ヶ月やり過ごせばいいんですね」とか「疎開地とか農業とか」
違うんだと
でわかったのは
この恐怖を克服するのは「復活信仰」だと。
昨日イザヤ53章をメインに話しました。つまり贖罪の死です。キリストが私の罪のため死なれた。これはどうしても理解してもらう必要がある。でもまだ「どうしたらいいの?」と聞いて来られます。
なぜなのか?信じたらいいのに。と
先日私は「患難前携挙説を検証する」zoomセミナーしました。調べる中で、患難前ではどうして素直に聖書読めば患難時代にクリスチャンがいるのに、自分たちだけ携挙を当てはめて助かりたいと考えるのか?
また患難後の人も農業だ疎開地だになる。
それはどちらも恐怖のもたらすものではないのか?
携挙にしがみつくのも疎開地にしがみつくのも、一般の人がコロナを恐れてマスクやワクチンにしがみつくのも、全て「恐怖」のもたらすものなんだと。
それで気づいたんです。
全ての恐怖を克服するのは「復活」しかないんだと。
イザヤ53章は贖罪の死については書いてあるが、復活が明確でない。
キリストは蘇られた。そして信じる者は同じように死んでも復活するんだと。
死んでも蘇る復活信仰がある、それが永遠の命
それが伝えるべき核心なんだと
私は贖罪の死だけ語っていた。
パウロが伝えたかったのは、贖罪の死と同時に復活信仰
“それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。
そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。
悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。
しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。"
ヨハネの福音書 3章15~21節
“志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。"
イザヤ書 26章3節
“私たちは身ごもり、産みの苦しみをしました。それはあたかも、風を産むようなものでした。私たちは救いを地にもたらさず、世界の住民はもう生まれてきません。
あなたの死人は生き返り、私の屍は、よみがえります。覚めよ、喜び歌え。土のちりの中にとどまる者よ。まことに、あなたの露は光の露。地は死者の霊を生き返らせます。
さあ、私の民よ。あなたの部屋に入り、うしろの戸を閉じよ。憤りが過ぎるまで、ほんのしばらく身を隠せ。
それは、主がまさにご自分のところから出て、地に住む者の咎を罰せられるからだ。地は、その上に流された血をあらわにし、そこで殺された者たちを再びおおうことはない。"
イザヤ書 26章18~21節
私はクリスチャンが携挙がいつかでなぜ口論になり、感情的になるんだろうと思っていました。ではよく考えると、死が怖いんだと。患難前の人は患難時代に反キリストに殺されるのが怖い、患難後の人はどうやって迫害から逃れて生きるか疎開を考える。
どちらも死んでも蘇る復活信仰が弱ければ、「患難のことは考えずに携挙を信じる」か「疎開地でやり過ごせばぎりぎりまで生きれる」と考える。
大事なのは携挙ではなく、復活なんではないのか?携挙で助かるではなく、携挙の時に復活がある、死なない栄化された身体に変えられる。それが核心でないのかと。
私はノンクリスチャンに患難の殉教の覚悟を話すことができなかった。信仰が無ければ耐えられない。農業や疎開地で解決するのではなく、死んでも復活する永遠の命の話をしないといけないと、やっと帰りに気づきました。
聖書の信憑性と罪と贖罪の死については話した。だから次は復活信仰についてしっかり話さないといけないなと。携挙で助かるのが核心でなく、死んでも復活することが核心なんだと。