「神戸アウトリーチ、思うところ」

「神戸アウトリーチ、思うところ」
4月の神戸プレイヤーウォークに続き、7月22〜25日の4日間に行われた神戸アウトリーチ、路傍伝道の働き
学んだこと
感じたこと
思うところ
少し書いてみます。
1.全国にこんなに伝道に熱心なクリスチャンたちがいたこと
東京、千葉、大阪、名古屋、愛媛、福岡その他からみなさん来られていた。沖縄チームは台風が居座り、航空便がなくなってやむなく参加出来なかったが。みなさん自腹で来る。連休を捧げて来る。すごいなと思った。今まで韓国や米国から短期宣教旅行のみなさんと神戸で伝道したことはあったが、日本人たちにそんな熱心の人はほとんどいないと考えていたが、そうでなかったことに驚きました。
2.伝道の仕方は様々であっていい。
今回の日程を組んでくれたNPLのTex渡邊、まゆみご夫妻が全体を仕切ってくださったが、路傍伝道そのものはすでに各地で路傍伝道を経験されてる人たちが、自分のそれぞれのやり方を選択していたように思われました。
世間話から入る人、自分で用意したトラクトの説明から入る人、NPLの「三つの円」を使う人、数をこなす人、1人にじっくり時間かける人。
彼らに共通しているのは
「今日本には福音が必要であり、それは私たちが伝えなければならない」という志でした。
お互いのやり方から謙遜になって学び、より良い方法を見出すこともあるでしょう。
3.神様は既成教会の枠を壊し始めておられるかもしれない。
かつてカトリックからルターが反旗を翻し離脱した宗教改革の時代があった。またプロテスタントにもウェスレーによる聖書研究会の普及や信徒伝道による宣教が拡大した時代、ペンテコステ派が既成教会から離脱し新しい群を形成した時代があります。
これらは全て教会が聖職者に権威が集中し過ぎて、伝統的になり、宣教の働きが停滞し、信徒の働きが不活化した後で起こりました。
神様は常に教会に生きた水の流れを起こされるようです。今から20 年前には日本にゴスペルブームが起こったが、そのリーダーの多くはクリスチャンですらなかったし、やがて彼らは信仰を持ち牧師にすらなり、宣教の働き手になって行ったが、あのゴスペルブームも牧師たちが始めたものではなかった。
昨年からパンデミック×により教会礼拝ができなくなったり、伝道イベントが軒並みできなくなって、教会は辛うじて小規模の礼拝を維持する以上のことができなかったと思います。
しかし同時に昨年からネット環境を使い例えばzoomで、教会の枠を超えた学びや、祈り会、ネットワークが形成され始めました。
牧師が自分の教会の信徒を充分牧会できず、YouTube礼拝配信しかできない。ましてや伝道の訓練なんか全く行っていない、神様はそれをどうご覧になっていたのか。神様は地域教会の枠を超えた、ご自分の羊を育成することを始められたのかもしれないですね。
今回の神戸アウトリーチの働きは何かそのような予感を感じさせる4日間でした。
参加した人たちの背景は知りません。ただ神戸のため路傍伝道するなら参加してみたい、それぞれ思いの与えられた人たちがネットで繋がり、祈り、連絡を取り合う関係になりました。
NPLは重要な役割を果たしたが、参加した人たちは必ずしもNPLのネットワークで学んでいる人ばかりではなかった。
かつて米国の伝説的な牧師デイビッドウィルカーソンは1970年代に与えられた預言的幻で、キリスト帰還前の世界の終末期には、自分のことをカトリックだとかプロテスタントだとか言わない、ただクリスチャンと名乗る人たちが、既成教会を離れて家の教会を形成し始めると言いました。
それは終末期の反キリストの迫害に備えさせる神様の配慮かもしれない。おそらくその時代には看板を上げた既成教会は反キリストに妥協して屈するか破壊されるだろうから。
今回参加されていたクリスチャンにも母教会に繋がり礼拝に出ながら、個人で路傍伝道されている方が多い。教会はその人の伝道を支援する場合もあるが、牧師自身が教会の外への伝道に熱心でなく、また教会員たちもほとんどそのような働きに参加しない。やる気のあるクリスチャンを教会が支援していない、という構図が見えて来ます。
その中には既成教会を離れて自分で家庭集会を始める人もいる。今はそのようなシーズンがキリスト教界にやって来ているのかもしれない。
既成教会を超えたところで何が起こるのか?
1.信徒が弟子訓練されて、自分の町でセル教会や家の教会が自発的に始まる。
キリスト教界にとって、宣教の働きにおいて最大の課題は「眠れる信徒をどう目覚めさせるか?」でした。
宣教師や牧師による伝道集会ではなく、草の根的な信徒伝道
これが活性化すれば日本のクリスチャン比率1%の壁を破れる。
そう考えられて来た。しかし教会が弟子訓練を施し、信徒を世に送り出すのではなく自分の教会の成長だけを望む牧師による「羊の囲い込み」がそれを妨げて来たことはないだろうか。
2.既成教会の枠が壊れた時、自発的セルや家の教会の教理的正統性や教会権威の継承はどう維持されるのか?
信徒がもはや母教会の牧師の手を離れ、自分で家庭集会や家の教会を始める時、神学的学びの不十分な信徒が教理的逸脱や異端、カルト化し始めることはないのだろうか。
残念ながらそれはあり得ると思う。
初代教会においてもその問題は生じた。
“わたしは、あなたの行い、あなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが悪者たちに我慢がならず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちを試して、彼らを偽り者だと見抜いたことも知っている。"
ヨハネの黙示録 2章2節
故に既成教会を超えた信徒伝道の活性化が起こる時、神学校を卒業した聖職者や牧師だけではない、牧師以上に伝道に秀でた熱心な増殖の働きが起こされるだろう。しかしそれが母教会のコミュニティを軽んじたり、神様によって建てられた教会リーダーの権威を無視し始める時、「聖霊に導かれた」と信じる信徒による教会の分裂や造反が起こることがあり得る。
牧師が自分の教会の成長だけのために羊の囲い込みをやめ、熱心な信徒に働きやすい支援をしてあげる、地域の他の教会と一緒になって祈る、弟子訓練の取り組みに参入する。
信徒は牧師の理解を得られるよう母教会のコミュニティに日頃から仕える、どうしても理解や支援を得られないなら、自分の働きが支援される牧師や教会を探す。宣教師や地域伝道に熱心な牧師にコーチングしてもらいながら、教理的逸脱や自己中心な働きに陥らないよう訓練を謙遜になって受ける。
そういう双方の「愛による一致」が必要になって来るように思います。
牧師と教会が地域宣教において互いの教会を祝福できず、外へ出て行く熱心な信徒の働きを応援して生かさないなら、既成教会の高齢化と低成長を止めることは出来ずに、やがて地域宣教におけるその教会の使命は終わっていくかもしれません。
“私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じ長老の一人として、キリストの苦難の証人、やがて現される栄光にあずかる者として勧めます。
あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って自発的に、また卑しい利得を求めてではなく、心を込めて世話をしなさい。
割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。"
ペテロの手紙 第一 5章1~3節
また信徒が弟子訓練を受けずに、謙遜になって聖書を学んでいかなければ、教会に建てられた牧師の権威を軽んじ、自分の独立独歩の地域宣教の中で孤立して行くことになるでしょう。その働きは一時的に成功するかもしれませんが、長い目で見て忠実な次世代への継続の働きとして育たない可能性があります。
“同じように、若い人たちよ、長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。"
ペテロの手紙 第一 5章5節
この主に牧師側の問題と、自発的な信徒側の問題が双方に愛しあい支援し合う関係になれば、また地域で教派を超えた弟子訓練の働きに一致して行けるなら、日本に再三来ると期待されたリバイバルは本当にやって来るのかもしれません。
加筆あり。