「迷信」

「迷信」
以前のことであるが
ある人と過ごしている時に、その人は今から「お経」を読むとおっしゃるので、私はその方の読むお経を聞くことになった。お経は浄土真宗の聖典だったが、時折読経されているそうだ。その人がひとしきりお経を読まれた後に私は質問した。
「あなたはそのお経の意味がわかりますか?」
「いや、あんまり。開放されるとかそういう意味ですかね。」
私はお経を借りてお経の前文の解説を読んで差し上げた。
「このお経の意味は久遠の仏が菩薩を衆生、つまり生きとし生けるものに遣わして導くことを喜ばれた、という内容です。知ってましたか?」
「んーよく知りません。」
「あなたはこのこと、すなわち永遠に存在するお方が人間を救うために救い主を遣わされたということを信じますか?」
「んー難しいですね。」
「でもそれがあなたが今声に出して読んだお経の内容なんですよ。」
「そうなんですか?」
「実はこのお経の内容のルーツは聖書にあるんですよ。永遠に存在するお方が救い主、すなわちメシアを遣わされて人類を救うというのは、そのまんま聖書が教えていることと同じなんです。」
「んー」
「これは釈迦が教えた内容ではなく、このお経が書かれた1世紀から3世紀にインドにキリスト教が宣教されて、インド人がそれを仏教教典に組み入れてしまったんですよ。それが中国経由で日本に入って来た。おそらく親鸞もそんなこと知らなかったでしょうね。」
「んー」
「迷信」とは何だろうか?
自分が唱えている神や仏、その実体を知らないこと、教えの意味を理解していないこと、何を拝んでいるのか、その根拠もわからないこと。
日本人の多くがその中にいるのではないだろうか?
願わくばこのウイルス災禍
人々の心が本当に信頼できる本当の神様と救い主を求めるようになって欲しいと願う。