「患難前携挙説はみことばと一致するのか?」

2019年11月7日

最近もある団体の「患難前携挙説」に関するセミナーが開かれ、大変盛況のようですが、私は以前からこの説に疑問を投げかけてきました。

私も以前セミナーでお話しを伺いましたが、私の投げた質問はテクニカルだとして、最後に回され時間が無いからと逃げられてしまいました。誰か答えてくださるといいのですが。

最近も私の記事を読んで、以前患難前携挙説でしたが、今は変わりましたとある牧師さんが言ってくださいました。
携挙論に関心のある方はご覧になってください。

 

「患難前携挙説はみことばと一致するのか?」

昨日「霊的戦いセミナー」がありましたが、教会の中では霊的戦いや預言、聖霊論などにはまだまだ議論があります

これはその人の経験値によって、ずいぶん考えが変わるものです。例えば「異言」を否定していた牧師がある日聖霊に満たされて、口から意味不明の言葉で祈り始めるという経験をすれば、彼は「異言」が現代も神様の賜物としてあるんだということを経験的に知ることになりますし、教会で悪霊に縛られている人がいて、礼拝の中で悪霊がその正体を現せば、霊的戦いが現実に、聖書時代と何も変わらず今日も存在していることを知ることになります。

このように聖書解釈というものは、実際の信仰生活の中で、聖書と照らし合わせていく中で体得していくものでもあるということが分かります。

しかしまだ解釈が判然としていない分野、例えば終末論の場合、まだキリストの再臨が起こっていませんから、断定的に教えるということが難しいのが分かります。

しかしある教派ではキリストの再臨がどのようなものであるか、どういう時系列であるのかについてかなり詳細に教えられる牧師さんもいらっしゃいます。

今日はよく議論になる「患難前携挙説」について少し。

この説はキリストの再臨の時起こる「携挙」世の終わりにキリストにあって救われた者だけが、終末の神の御怒りから逃れて、空中に抱えあげられる超常現象を指しています。地上では悔い改めない人々に対して神の御怒りが注がれて、大災害、疫病、戦争、天変地異が多く起こって人類の4分の3ほどが死ぬという時代で、「患難時代」と言われています。(この解釈で制作された映画がニコラスケイジ主演のレフトビハインドです)

しかしこの「患難時代」が何年あるのかについて、また「携挙」が患難時代の前にあるのか、患難時代の中で起こるのか、患難時代と大患難時代という区分はあるのか、牧師さんによってずいぶん解釈が分かれるのですね。

一般にはダニエル書の解釈から患難時代は7年間であるというのが有力ですが、7年全体を大患難という人も、その後半を指して大患難という人もあるし、そもそも患難時代は3年半という人もいるのですね。

どれが正しいのかはそれぞれに根拠をあげておられるので、私としては「その時になればわかる」という外ないのですが、少し心配なのは「患難前携挙説」の方の場合、断定的に教えられて、もしそれが外れた場合、どうなるのかということなんですね。当然動揺が信徒の間で走るということになるのではないかなと。

一般に「患難前携挙説」の場合、「反キリスト」と呼ばれる世界支配者が現れて、独裁政治を行いイスラエルと信仰者を弾圧するというのですが、現在のクリスチャンすなわち救われている人たちは、携挙がその前に起こるので、その弾圧にあわずに済むというのです。

私は以前から、この論理に疑問を感じていて、聖書からそのように読み取れるような断定はできないと考えてきました。

主な理由として
1、患難時代には明らかにクリスチャン(キリストを信じている者)が存在しているということ。
2、神の御怒りが患難時代7年全体とみなせる根拠が薄いこと。

患難前説の「ある説」では、クリスチャンは罪赦されて救われているので、神の御怒りには合わないのだから、患難時代の前に携挙があるというのです。ところが携挙が起こった後改心した信徒には聖霊も与えられず、患難時代の辛酸をなめるというのです。

しかし私はこの論理は矛盾していると思うのです。

なぜか?
1、 新約における契約は、旧約聖書に事前に預言されてある。したがって神様の聖徒に対する扱いが旧約と新約で異なることには同意する。
2、 しかし新約時代のクリスチャンに2段階の扱いがあるということを聖書ははっきり預言していないのではないか。
3、 罪赦されたクリスチャンが神の怒りに合うはずがないと言いながら、患難期に回心したクリスチャンがなぜ「神の怒りの日」にそこにいるのか説明されていない。
4、 もし患難期に回心したクリスチャンが、聖霊のバプテスマを受けられないとするなら、それは新約聖書に何度もクリスチャンが受けるものとされた聖霊の約束(父の約束)が果たされないことを意味する。
5、 聖霊を受けないクリスチャンに大迫害に最後まで耐え抜けと言ったり、聖霊を受けないクリスチャンによって患難期に世界宣教が行われ、リバイバルが起こると考えるのは、不合理である。

●該当の聖書箇所

使徒 1:8あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。

地の果てまで世界宣教するのは、「聖霊のバプテスマ」を受けたクリスチャンであると書いてあります。

マタイ 28:20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

イエスがクリスチャンに約束された「共にいる」は、聖霊のバプテスマによる「聖霊の内住」のことを意味するのだとしたら、終末の患難期のクリスチャンに、これがないとするならイエスは嘘をついたことになります。

マタイ 24:14そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」

ペテロも言っています。

使徒の働き
2:38すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。2:39この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」。

このように
「地の果てに至るまで」、
「世の終わりまで」
「神の召しにあずかるすべての者」

の新約聖書の約束は、ペンテコステ以後のすべてのクリスチャンに約束されているものです。

キリストにある救いというのは、普遍的なもので、十字架以降キリストの再臨まで、段階的に変わる要素というものはないのです。そして地の果てに至るまで世界宣教は「聖霊のバプテスマ」を受けた信徒によって完了されるとイエスが明言されています。

だから世界宣教が完了していない段階で携挙が起こり、その後に聖霊のバプテスマがないままで世界宣教が続いて信者が起こされるというのは、聖書に合わないのです。

携挙がいつあるかわからないということは、携挙が1世紀に起こってもおかしくないわけですが、それではイエスが命令された世界宣教は果たせないことになります。

だから携挙がいつあるかわからない=携挙の前に起こらなければならない事象は何もない、とは言えないのです。

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