
PIカンファレンスでのセミナーで繰り返し大事にされているテーマがあります。
それは「福音中心」ということです。
福音はキリスト教の核心ですから、当たり前と言うと当たり前。
ところが教会が福音中心でないと、何が起こるでしょうか。
人との比べ合い
あの人は私より恵まれている
私はあの人より優れている
私はあの人よりダメだ
私なんて
もっと頑張らないと
人間に疲れた
こういう感情が入って来ます。
福音とは何でしょうか。
“なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。”
ローマ人への手紙 3章20節
“すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。”
ローマ人への手紙 3章22~24節
つまり私たちは「恵みのゆえに救われている」という事実です。
何かをしたから救われたのではない。何かをしていないから神に愛されていないのでもない。
すでに救われて
愛されて
義とされている
その喜びと感謝があるということです。
全ての愛の行動は福音によって値なしに義とされた喜びから、アクションが起こります。
ねばならない
義とされるためにしなければならない、のではありません。
あなたはすでに愛されて義とされています。
では愛されて義とされているなら、喜びがあるはずです。
なぜなら私はそれに値しない罪人だったからです。
今あなたには喜びがあるでしょうか。
健康だからでしょうか、友達がいるからでしょうか、家族に恵まれお金に恵まれているからでしょうか。
喜びの源泉は福音によって義とされていることによる喜び
神の愛は自分が愛される価値があることを自分に知らせます。
神が私を愛するなら、私も自分自身を愛し始めます。そして自分を愛する者は周りの人を愛し始めるのです。
それが全てのアクションの土台になるんです。
真の愛のアクションは周りに影響を与えます。それは神の愛が注がれていることを知っているからです。
こんな者でも愛されている
こんな者でも役に立つなら
何かをしてみよう
私はすでに神の子とされたのだから
このことを思い出すこと
イエスの十字架を見上げて生きる
これが福音中心に生きることです。
