「患難前携挙説はみことばと一致するのか?」その2

「患難前携挙説はみことばと一致するのか?」その2

患難前携挙説を論ずる時によく根拠としてあげられるのが、黙示録3章までは「教会」という言葉が使われているが、4章以降なくなり、22章まで使われていない。これは3章の最後で携挙が起こり、患難時代に地上に教会が存在しなくなるからだ、と説明されます。

このことについて取り上げてみます。

まず3章で使われている教会とは、ヨハネの時代に実際に存在していた7つの地方教会に個別に神が預言を与えている箇所です。

それに対して4章以降では「聖徒」という言葉が使われています。では聖徒とは何でしょう?

“コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。”
コリント人への手紙 第一 1章2節

“神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロ、および兄弟テモテから、コリントにある神の教会、ならびにアカヤ全土にいるすべての聖徒たちへ。”
コリント人への手紙 第二 1章1節

新約聖書において「聖徒」とはすなわちクリスチャンそのもののことを指しています。すなわち異邦人を含めた教会の信徒を指しているのです。

「聖徒」は黙示録では

“神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちの忍耐はここにある。」”
ヨハネの黙示録 14章12節

“そして、私はこの女が、聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見た。私はこの女を見たとき、非常に驚いた。”
ヨハネの黙示録 17章6節

患難前携挙説によれば、黙示録4章以降はすでに患難時代に入っているとみなしますが、それ以降も聖徒は地上に存在するのが明白ですね。

12節の「イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒」6節の「イエスの証人」は結局は同じことを指しています。すなわち聖徒とはクリスチャンのことです。そしてクリスチャンとは聖霊のパプテスマを受けたイエスの証人であるわけです。

“しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」”
使徒の働き 1章8節

患難時代にイエスの証人がいて、世界宣教がまだ継続するのであれば、当然聖霊はまだ働かれています。聖霊によって「地の果て」まで宣教されるとイエスははっきり述べている通りです。

ではなぜ患難前携挙説では、聖霊は患難時代にいなくなると考えているのでしょうか。

彼らは以下の箇所を引用します。

“不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。”
テサロニケ人への手紙 第二 2章7節

悪魔の化身である「不法の人」を止めるのは聖霊しかいないと彼らは考えます。

しかし聖書を読むと旧約聖書から様々な場面で神に敵対する者に立ち向かうのは「御使い」「天使」であることがわかるのです。

“しかし、彼が出かけると、神の怒りが燃え上がり、主の使いが彼に敵対して道に立ちふさがった。バラムはろばに乗っており、ふたりの若者がそばにいた。”
民数記 22章22節

“ペルシヤの国の君が二十一日間、私に向かって立っていたが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので、私は彼をペルシヤの王たちのところに残しておき、”
ダニエル書 10章13節

こう考えると不法の人を止める者が聖霊でなくてはならないと考える必要は無くなります。

神は一定の間不法の人の出現を抑止し、ある時が来たら抑止している天使の任を解くと考えるのは自然です。似たような記述が黙示録にあります。

“その声がラッパを持っている第六の御使いに言った。「大川ユーフラテスのほとりにつながれている四人の御使いを解き放せ。」
すると、定められた時、日、月、年のために用意されていた四人の御使いが、人類の三分の一を殺すために解き放された。”
ヨハネの黙示録 9章14~15節

殺人の御使いを解き放つのも、やはり御使いなのです。このように不法の人を抑止する者が聖霊しかないと考える根拠は無くなります。

世界宣教とイエスの証人の働きが依然残っている患難時代に、聖霊が地上から消えなければならない理由はないのです。

以上の理由から患難前携挙説が主張する

1.患難時代前に聖霊は去り、同時に聖霊によりパプテスマされた教会は携挙され存在しなくなる。

という理屈が消滅します。

 

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